よくあるお問い合わせ

城崎温泉 ときわ別館HOME > よくあるお問い合わせ > その他

その他

ゆかたが上手に着られるか心配です。
着付けのお手伝いはさせていただきますので、どうぞお気軽にお申し出下さいませ。
また、便利なホームページがあります。事前にこちらを要チェック。上手の着方の他、NG集もあります。

ここをクリック
なぜ「ときわ別館」というのでしょうか? 「本館」はあるのですか?
当館は「常盤本館(ときわほんかん)」の別館として、昭和40年に開業いたしました。開業当初は本館と別館の両方で旅館商売を営んでいましたが、現在はこちらの「ときわ別館」一軒のみで営業をさせていただいております。
であるならば、「別館」の文字はとってもよいのでしょうが、「温泉街から少し離れた立地で、別邸のようにくつろいでいただきたい」との思いから、屋号を現在まで引き継いでいるのです。
「きのさき」の名前の由来は?
かつて城崎という地名は、現在の豊岡市中心部の呼び名だった。奈良時代から平安時代にかけて、古代の日本国家は、地方行政の単位として国-郡-里(郷)を設けたが、但馬国は八郡に分けられた。当時の但馬国城崎郡は、今日の豊岡市と城崎町を合わせた地域とほぼ重なっている。
平安時代の承平年間(931~37)に成立した、わが国初の百科事典『和名抄(わみょうしょう)』には、城崎郡内に新田(にった)、城崎、三江(みえ)、奈佐(なさ)、田結(たい)の五郷と余戸(あまるべ)が記されている。余戸は現在の香住町余部とは無関係で、所在地は不明。他の五郷は、現在にも生きているおなじみの地名だ。
この中の城崎郷を城崎町にあてはめたくなるが、城崎町は田結郷に含まれていた。円山川河口をはさんで東側の田結(たい)、気比(けい)、西側の瀬戸、小島(おしま)、桃島、湯島、来日(くるひ)など豊岡市北部と城崎町が田結郷で、さらに円山川上流左岸の一帯が城崎郷となる。江戸時代の享保十八年(1732)、河合章堯という人が残した『但馬湯嶋道之記』によると、湯島の古名は「大谿(おおたに)」といった。地形から名付けられたようだが、この名は大谿川として残る。
『和名抄』は、それぞれの地名に万葉仮名で和訓を付けており、城崎を「岐乃佐木」または「木乃佐木」と読ませている。城崎の名が現われる最古の記録は奈良・平城京跡から出土した木簡(古代、紙と同じように木片に文字を墨書したもの)で、奈良時代の神護景雲三年(769)の年号が入っており「城崎郡」と書かれている。このほか古代には、「木前」「木埼」「木崎」などと表現されていた。
「きのさき」という名は、どのようにして生まれたのか。温泉寺本尊の十一面観音像が長谷寺(奈良県)の本尊と同材、同作で、同じ材木のうち木の先の部分で作られたため「きのさき」となった-という駄洒落(だじゃれ)めいた話もある。『城崎町史』(1988年)は、豊岡市で出土した木簡に「絹前…」または「縄前…」とも読める文字があることから、「絹前」=キヌサキ説の可能性に触れている。一方、別の説もある。太古、海だった豊岡盆地が紀元前二万年ごろから隆起と海の後退によって次第に陸化、沼地状になった一帯を「黄沼前の湖(きぬさきのうみ)」と呼んだ-。いずれにせよ、決定的な根拠はない。
城崎という地名は、丹後の京都府船井郡のほか肥前国佐嘉郡(佐賀県)にも「木佐岐」、常陸国久慈郡(茨城県)の「木前」など、全国に十ヵ所以上あるが、いずれも「きさき」と読み「きのさき」と読むのは但馬だけらしい。

(城崎物語より抜粋)